2011年06月19日

身の振り方

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といっても、写真活動についての話し。
4月から白岡先生のカロタイプ講評講座に通い始めたのだが、
毎月1回、6月までに3回受講して、あと3回を残し受講をやめることにした。

この講座は、「作品の内容・プリントの完成度、セレクション・イメージの並べ方、
タイトル、作品発表のためのプレゼンテーションの追究が目標。他者の作品をみること、
自己の作品をみること、自己の作品について語ること、他者の作品について語ることで、
写真をみる眼、写真をつくる眼を培う。」とのうたい文句に惹かれ参加したのだが、
どうも様子が違うように感じた。
概ねこの方針でWSは進められるのだが、”白岡氏が良しとする写真”が前提に
なっているように感じる。
参加している人も、白岡氏や氏の作品に惹かれている写真作家志望の方が大多数なので、
参加している方の意見をも自ずと、氏と同じ方向性の意見に集約されてしまう。

小生は、氏や氏にあこがれる作家志望の作品がどのような経緯で生まれるのか、
また小生が良しとする作品が、どのように受け止められるのか、その点に興味があり
受講したのだが、それらについては理解できたものの、彼らが良しと思わない作品への
独善的な(少なくとも私にはそう感じた)講評が耐えられなかったのだ。

写真関連のWSは、写真関係者間だけで事が進み、彼らだけでの評価で善し悪しが
語られてしまうのがほとんどだが、日本で写真が今ひとつパッとしないのは
そこに原因があるのではないかと感じている。
マスの評価は全くあてにならんという考え。

しかし冷静に考えると、”写真”というものが、結局は生々しく、
綺麗に現実を写し撮れてしまうものなので、そこに深い芸術性を
付加しようとすると、どうしてもその様な理念になってしまうのかもしれない。

私は写真は美しくあるべきと考える。
そしてその美しさの中に作者の”思い”を埋め込めばいい。
意図して撮られた駐車場やゴミやフェンスの写真を”心の毒”といって見せられても、
私には不愉快に感じるだけである。
残念ながらおもしろさなんてみじんも感じない。
なぜならそれが”写真”でしかないから。


もっと自由に写真表現を学び活動できる環境を、もう一度構築しようと思う。

posted by omiya at 23:32| Comment(0) | 日記

2011年06月12日

幸せな写真

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世には様々な写真が存在する。
特にデジタルカメラが出現してからは、その”さまざま”の度合いは半端ではない。
きっとまだ見たこともない写真表現は、沢山あるんだろうと思う。
しかしどんなに色々な写真があったとしても、自分の好きな写真は決まっている。

見ていて幸せになれる写真。
穏やかにされる写真。
元気になる写真。

一方でそんな写真を「誰でも撮れる、つまらない写真」という、いわゆる”写真作家”もいる。
ひとひねり、ふたひねりして、一生懸命独自性を追求している。
”作家”としてギャラリストに評価されるには、今までにない表現をしなければならない。
確かにその世界で”勝ち抜く”ということは、そういう事なのだろう。
”大きな目標”と言えるのかもしれない。
しかし一方で、ギャラリストだったり評論家に評価されること、
すなわち”お墨付きをもらう”ことが大きな目標だというのは、
美術や芸術を嗜む人の目標としては、いささか侘びしい感じもする。

写真に限ったことではないが、モードすなわち皆がよいと思うものは必ず繰り返される。
それは、一般的に人が好むものは決まっていて、飽きることはあっても必ずまた
元の鞘に収まるということではないのか。

新しいもの、今までなかったものは飽きた末の一時凌ぎであって、
本質的な”良さ”ではないのではなかろうか。
「人と違う」というだけの”虚栄”ではなかろうか。

posted by omiya at 22:52| Comment(0) | 日記